「死にたい」「つらい」「もうどうでもいい」ネガティブとの共存について

「死にたい」「つらい」「もうどうでもいい」LINEの女友達との会話はそんな言葉ばかりが並ぶ。

もちろん、本気で死にたいわけじゃないけど、時々3%くらい、本気も入っている。

FBやインスタでキラキラしているセレブで可愛い仕事のできるあの子もこの子も。

みんな幸せそうに見えるけど、実際はたくさん悩んでいる。

もちろん私も悩む。

その時に出口のない迷路に入らないように工夫をするが、そんなネガティブさも生きるのはなぜか必要だ。

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落ち込むことは一種の自己陶酔

落ち込む時は、大体、

●自分はもっとできるはず
●自分はもっとしてもらえるはず
●自分はこうであるべき

という謎な自分像に支配されている。

もしくは過去の自分との比較かもしれない。

期待値とちがうことにがっかりして落ち込んでしまう。

アラサーで凹むのはしんどい。

若さという根拠のないばねはもう伸びきっている。

ちょっと停滞して凹んでいても、誰も手を差し伸べてくれない。

もがいてあがいてSNSにさらすのがみっともないことだということも知ってる。

でも、女は吐き出さないと、身体に毒のように貯まるのだ。

そのネガティブが。

そしてちょっと友達に愚痴って、自分の現在地を確認したら、すくっと立って彼女たちはちゃんとまた歩き出す。

ネガティブが連れて行ってくれるところ

SNSに上げるようなきれいでおいしいだけが人生じゃない。

周りの人に「ごめんなさい」と言いながら気分が墜ちていくのも人間だし、人を傷つけるのも人間。

もちろん、傷つくのも人間。

自分に丁度の世界なんて、丁寧に用意されているわけではない。

でもネガティブは自分に残っている「若さ」の証拠ではないかと思う。

「くそったれ」と毒を吐くより、「仕方ないね」と受け入れるほうが、大人は楽だ。

でも、その「くそったれ」には悲しいとか、悔しいとか、あーあとか、自分が人生にぶつかる度に感じてきた敗北感がある。

大人になると、それすら見なくなる。

どの道を通れば壁がないかわかってくる。

でも、それって平坦な道で面白くないかもしれない。

感情にふたをして、ぶつかる道を回避して得られる人生は、楽なのだ。

でもそれは予想外のところに自分を連れて行ってはくれない。

蓋をする人生をすごしていると、自分の人生に飽きた時、違うことをしようとしたとき、道が分からなくなってしまう。

だからネガティブがなくなったら寂しい。

冒険ができなくなるから。

停滞も人生の一部

しんどい時、底辺だなと思う時、我慢している時、人生は永遠の様だ。

でも、それらは最高の瞬間と同じく、過ぎ去ってしまう。

できることは、気持ちにふたをせず、その自分や周りへの期待値と向き合い、すり合わせ、その期待値に寄っていくこと。

小さいことでも、進めば、視界は変わる。

だから私は友達のネガティブな話を聞くのが嫌いではない。

むしろ好きかもしれない。

もがいているのが自分だけじゃないって思えるから。

今日この小説を読みながら墜ちてたらネガティブを久しぶりにいいと思いました。

ネガティブの向こうには生の人間がいる。

それに触ると生きてる実感を味わえる。

もうちょっと墜ちてから浮上します。

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